-プロローグ-


 風が吹き抜け、花が揺れた。
 そこは楽園のような花畑だった。ありとあらゆる色の花が咲き乱れ、様々な生き物が生を謳歌している。
 全ての存在が許され、甘く温かな夢に包まれるようなそんな世界に、柔らかな響きの歌が満ちる。
 それは子守唄だった。花畑を流れる小川のほとり、純白の花が群れ咲く中に女性が座っている。
 はちみつ色の長い髪を風に躍らせながら、少女のようにすら見える女性は、腕に抱いた赤ん坊のためにその涼やかな声を紡ぎ出す。
 その傍ら、二人に寄り添うように立つのは長身の年若い男性だ。闇色の髪に紅い瞳、精悍なその顔つきにはある種の威厳すらも漂う。
 しかしその瞳は暗い。眼前、この世の幸福を象徴するかのような女性と赤ん坊の姿を見るその眼差しには、何故か色濃い怯えがあった。
「……どうしたの?」
 閉じていた目を開けて、女性が微笑みかける。自分とは対照的な蒼色の瞳に見つめられ、男性が苦しげに眉を顰めた。
「そんな顔をしていたら、この子が怖がってしまうわよ?」
「俺に……その子を抱く資格は無い」
 懺悔するように震える声に、女性がそっと男性に手を伸ばす。その手に導かれるようにして、男性が膝をついた。力なくうなだれたまま、女性の方を見ることも出来ない。
「俺の手は血塗られている。これから先も、さらにそれを塗り重ねていく……そんな手で、この子には触れられない」
 女性の手が男性の頬に触れた。びくりと震え、顔を上げる男性。今にも泣きだしそうなその顔を、女性がまっすぐに見る。
「そうね。貴方の手は血塗られている。罪無き人々の、流されなくても済んだかもしれない血で……でもそれは貴方だけじゃない。私も、彼も、あるいはこの世界に生きる人すべてが、知らないだけで誰かの流した血の上に生きている」
「でも俺は、そのことを知ってて、知らない人々にやらせてるじゃないか……っ」
 血を吐くような叫びにも、女性はその眼差しを揺らさない。
「……ええ。でも、知っているからこそ誰よりもその痛みを背負っているのもまた貴方よ。それだから許されるわけではないけれど、でも、だからこそ貴方はこの子を抱いてあげなくちゃいけない」
 女性が赤ん坊を見る。今はただ、母親の温もりだけを感じながら穏やかに眠る、無垢な命。
「貴方と同じ業を背負って生まれたこの子を、遥か昔から続く終わりの見えない宿命を義務付けられたこの子を、抱いてあげて。この子の歩む道に、痛みと同じだけの幸福が約束されるように」
 男性が、神聖な物を畏れるように赤ん坊を覗き込んだ。それに気が付いたのか、眠っていた赤ん坊がパチリと目を開く。
 両親から受け継いだ、奇跡のような蒼と紅の瞳を瞬かせて、赤ん坊がきょとんと男性を見つめ……
 やがて花が咲くように、男性に向かって、ニコォっと笑った。
 その瞬間に、男性の眼から涙が溢れた。肩を震わせながら、気づけばその腕で二人をしっかりと抱きしめていた。
「守るよ……」
 震える体に、女性が何も言わずに手を回す。互いにかけがえのない二つの温もりを確かに感じながら、永遠のような一瞬を魂に刻んだ。
「俺が君たちを守るよ。絶対に……」
 風が優しく世界を撫でていく。寄り添う親子三人を、果てしなく広がる透明な空が見守っていた。


-第一章 同時に旅立ち-

 大陸があった。
 この世界にただ一つだけの、故に世界そのものといっても良いその大陸は、遥か遥か昔より二つの勢力によって二分されてきた。
 魔族と、そして人間と。
 両者は互いを仇敵として憎み合い、いつ終わるとも知れない血みどろの戦いを繰り広げてきた。そんな永い戦乱は、やがて二人の英雄を生み出すこととなる。
 魔王と、そして勇者である。
 幾代にも渡って戦い続けたこの二者。時には勇者が魔王を討ち倒し、時には魔王がこの世を闇に包んだ。
 そして当代。大陸の西半分は、魔王率いる魔族の勢力圏である。
 その中心、魔王城。
 罪人を貫く槍のような険峻な山々に囲まれた、草木すら生えない赤茶けた渓谷に、すべての絶望を生むその城はあった。

 魔王城、大広間。
 今ここに、広間を埋め尽くして武装した兵が整列していた。
 張りつめた空気は重苦しさとなって広間を包み、居並ぶ兵の表情は一様に固い。
 そんな彼らの視線は、抑えきれない期待を伴って眼前の壇上に向けられていた。
 壇上に立つ、自分達に解放の鐘を鳴らす、主たる存在に。
 その期待に応えるように、一人の男が歩み出る。暗闇よりもなお黒い髪。切れ長の紅い瞳が一同を睥睨する。
 どことなく刃を思わせる鋭さを秘めたその男は、一つ頷くと右手を高く振り上げた。パアンと布の張る乾いた音を合図に、朗々たる声を上げる。
「我が同胞たちよ! 時は来た!」
 その声は広間の隅々まで響き渡り、ある種の快感すら伴って耳を打つ。
「我々の祖先が憎き人間の剣に倒れて幾年月、その間我々は、不断の努力と一致の団結をもって奪われた我々の大地を取り戻してきた…しかし! 今その大地は再び人間どもの手により穢されようとしている!!」
 かつて初代の魔王が勇者との戦いに敗れた際、魔族は滅亡の危機に瀕した。それから長い年月をかけてじりじりと勢力を盛り返し、五分の状態に戻して今に至るのだが、ここ数年、その均衡は崩れつつあった。人間の領域が、再び魔族の領域を侵食し始めていた。
 男は壇の真下、自身に最も近い位置に控える重臣を見やる。
「宰相グロウズ!」
「ははっ」
 しわがれた声で答えたのは小柄な老人だ。深いしわに刻まれた賢者の知謀が、策略を好む者特有の昏さに怪しく歪む。
「隠密頭コメル!」
「……」
 ただ頷きをもって返したのは黒衣に身を包んだ女性だ。自らを殺し闇に生きるが故の無表情な眼差しに、冷徹な光がちらりとよぎる。
「軍団長ヘカトン!」
「ガアッ!」
 地の唸りのような音は、岩のような大男から発せられた。サイズも岩なら肌も岩。内側からはち切れんばかりのその腕や足の筋肉を包むのは、硬質な岩石の質感だ。
「そしてここに揃いし精鋭達よ! 勘違いをしたサルどもに思い知らせてやるがいい! 所詮人間など喰われる側。搾取され、踏み躙られるしかない下等な存在であることを、死をもって奴らの魂に刻み込んでやれ!!」
 オォ! と声が上がった。解放の鐘が、今当に打ち鳴らされたのだ。
 ――オオオオオオオオッ!!
 ――魔王様万歳!!
 ――アーゼルバイン様万歳!!
 ――人間に死を! 破壊を! 絶望を!!
 ――我ら魔族に栄光あれ!!
 轟く歓声、沸き返る広間。兵は口々に王を称え、人間達への呪詛を叫んだ。しかしそれを眺めるアーゼルバインには、演説を終えた高揚も、次々浴びせられる称賛への満足も無かった。
 寂しげに揺れた真紅の視線が、見上げた虚空に何かを求めて彷徨う。
「フィリア……」
 ぽつりと溢すようにその名を呼んだ、その時だった。
「そこまでです!!」
 凛とした涼声が闇を引き裂き、広間の入り口の大扉が力強く開け放たれた。
 場内の沸騰が一瞬にして静まり返る。
「ぬうっ! 来おったか!!」
 アーゼルバインの頬を冷たい汗が伝う。扉から差し込む光を後光のように従えて、魔乱の宴に乱入してきた人影は二つ。
 そのうちの片方、少女の姿を持つ方が悠然と歩みを進めた。年の頃は十五、六。光を弾き艶やかに流れる黒髪を払い、奇跡のような蒼紅一対の瞳が真っ直ぐに前を見つめる。
 少女の歩みに合わせて、海を割るかのように兵達が道を開ける。その中を渡る威風堂々たる姿は、あたかも伝説の中の勇者にも似て…
「魔王アーゼルバイン! この世を闇に沈めんとする貴方達の野望、断じて見過ごすわけにはまいりません!!」
 その声に打たれて、グロウズ達三人が怯む。アーゼルバインに至ってはダラダラと汗をかいて、落ち着かなさげに視線をキョロキョロ泳がせている。
「ここに、このレンブレンディアが、光の神の名の下に裁きの鉄槌を……」
 と、そこで少女が何もないところで唐突に躓いた。
「きゃうっ!?」
 可愛らしい悲鳴と共に、ズビダアン!! という凄まじい音がして、少女が顔面から床に激突した。
 ザワッ! と広間に戦慄が走る。床にキスしたままピクリともしない少女を、周りの兵が恐る恐る伺い見る。
 ――大丈夫なのか?
 ――ヤバいんじゃないかあれ
 何とも言えない緊張感の中、むくりと少女が顔を上げた。打ち付けて真っ赤になった鼻をグス…とすすり、倒れたままべそまでかき始めた少女を、少女と一緒に入って来ていたもう一人、侍女服姿の女性が駆け寄り助け起こす。
 パンパンと埃を払い服を整え、エプロンから取り出したハンカチで少女の顔を綺麗に拭ってから消毒をして、鼻にペンとバンソウコウを貼った。非常に手際が良い。慣れているのかも知れない。
「ありがとうラクティス……」と礼を言った少女は、ゴホントわざとらしく咳払いを一つ。改めてビシィっとアーゼルに指を突き付け
「と、というわけで成敗させていただきます!!」
「え……ええいおめおめここへの侵入を許すとは! 衛兵は何をやっている!!」
 年の功というべきか、いち早く復活したグロウズが忌々しげに扉を睨む。
「上目遣いに涙目で入れて下さいってお願いしたら、簡単に入れてくれました!」
 扉の所に、申し訳なさそうにこちらを覗き込む衛兵二人。
「ぬぐ……それは確かに断れん! 陛下、いかがしますか。ここは何とか言いくるめて帰ってもらわな…って何で逃げとるんですか陛下!?」
「いやほら、お腹痛くて…」
「登校拒否児童ですかあんたは!」
 騒ぐ二人の真ん中にバシィ! と雷撃が炸裂した。顔を見合わせギギ……と横を向くと、目を吊り上げてこちらを睨む少女と目が合った。
「逃げないでください! 今日という今日こそは決着を着けさせていただきます!」
 う~、と心底困ったようにアーゼルバインが唸る。魔王は諭すようにレンブレンディアに向かって
「ほら。いい子だから帰りなさい。ここにはこわーいおじさんたちがいっぱいいるから、な? 危ないから」
「い~え帰りません! 子ども扱いしないでください! 今日こそは考えを改めていただきます。魔王アーゼルバイン。いえ……」
 対するレンブレンディアは、一拍の溜めを置いて、一息に言い放った。
「お父様!」

   お父様、の単語にびくりと反応したアーゼルバインを見て、好機とばかりにレンブレンディアが畳み掛ける。
「お願いですお父様! もうこのようなことはやめてください!」
「いや、しかしなレン。魔王というのはこういうものなんだが……」
「そんなことありません! 勧善懲悪の志に燃える正義の魔王がいてもいいじゃないですか!」
「それは魔王とは呼ばないんじゃないかなあ」
「気の持ちようです! 小さなことからコツコツと、イメージアップを図っていくことが大切なんです! 剣の代わりに鍬を持って、呪文の代わりに歌を歌って暮せば仲良く世界は幸せなんですー!」
「いや……だからな……」
 押され気味のアーゼルバインは、レンブレンディアの後ろに控える侍女服の女性に目をやる。楽しそうに事態を見守っていた女性は、アーゼルバインの視線に気づくとクスッと笑った。金色の穏やかな目に、いたずらっぽい色が浮かぶ。
「ラクティス、頼むからレンを止めてくれ…」
 魔王の情けない懇願に、ラクティスと呼ばれた女性はすましてちっちと指を振った。
「私がお仕えするのはレンブレンディアお嬢様ただ一人です。よってアーゼル、いくら貴方の頼みでもそればっかりは聞けません」
 それに、とラクティス。
「そもそもこんな感じに育てたのは貴方でしょうに」
「いや! 違うぞこれはグロウズが……」
「そこでワシですか陛下!? 陛下だって蝶よ花よと過保護に箱に入れてお嬢様をお育てになられたでしょうに!」
「何を言う! お前の話して聞かせたミトイエローゲートだとか暴れん坊ジェネラルとかの影響だろうが!」
「それを言うなら陛下だって……」
 魔軍のトップ2の大人気ないなすりつけ合いの合間に、先程の赤茶けた渓谷云々の魔王城の描写に視点を戻す。その視点を魔王城を中心に180度回転させると、世界の様相は一変する。
   青々と芽吹いた緑に一面の花。清流のせせらぎに合わせて鳥が歌い、あらゆる生き物が穏やかにそこに在る。そんな光溢れた世界の背景に、物凄く居心地が悪そうに魔王城がそびえていた。
「おのれ、情操教育を重視しすぎたか…っ。しかし非行に走ったりされたら悲しいし」
「陛下、陛下。ここは父親らしくガツンと言うべきですぞ!」
「ええ~……」
「泣きそうな顔せんでくださいあんた魔王でしょうが!」
「じい……どうしてそんなこと言うの? じいはあんなに優しかったのに……」
 じわりと涙を浮かべるレンブレンディアに、てきめんに狼狽するグロウズ。
「おおおおおおお嬢様!? 皆の前ではじいとお呼びになるのはやめてくださいとあれほど……」
「き~さ~ま~! グロウズ、よくもレンを泣かせたな……っ!」
「凄む方向間違っとるでしょうが陛下!!」
「ヘカトンさんだって、いつも高い高いしてくれましたよね?」
「ウ、ウガア……」
 しゅんと小さくなる軍団長。
「コメルさんだって、よく、子守唄歌ってくれて……」
 えっ!! っと突然の暴露に一斉に兵達から注目され、真っ赤になる隠密頭。
「い、いえ……あの……私は…そのう……」
 もじもじして、よほど恥ずかしかったのか、ずぶずぶと自分の影の中に沈んで隠れてしまった。
「皆さんも、考えてみてください! 皆さんの大切な物。家族や、恋人や、友人や、そういう幸せを犠牲にしてまで戦うほどの価値が、本当にありますか!」
 四人を沈黙させたレンブレンディアは、今度は集まった兵士達に訴えかけた。切々と綴られるレンブレンディアの言葉に、兵たちは無言で顔を見合わせ
 ――お嬢様が言うなら……なあ?
 ――だよな。やっぱり戦争はいけないと思うんだ
 ――俺の所の畑、もうすぐ収穫なんだ
 ――育ててたバラが、もうすぐ咲きそうでさ
 俺も俺もとちっちゃな幸せ自慢があちこちで始まり、結婚します! とか、子供が生まれてパパになります! などというサプライズな話にはやんややんやの大喝采。とうとう胴上げまで始まってしまった。
 先程までの士気は雲散霧消。極めてほのぼのとした空気が充満し始める。
「いかん。このままではまた出撃できずに終わってしまう」
「ですなあ。ここ一年、戦争以前にこんな感じでそもそも戦えてませんでしたし」
 焦るアーゼルバインに溜息を吐くグロウズ。魔王軍衰退の、衝撃の真実である。
 アーゼルバインは大きく深呼吸して、言うぞ言うぞ今日こそは……! と気合を入れ直し
「とにかくだ! 大人には大人の、魔族には魔族の事情というものがあるんだ。レン、聞き分けのないこと言ってないで帰りなさい!!」
「いーやーでーすー!! わからないのはお父様の方です! どうしてですか…お母様だって、こんなこと、望んでおられなかったはずです!!」
 ぐ……とアーゼルバインは苦渋を浮かべ
「お前には関係ないことだ。これは子供が口出しして良い問題ではない!」
 冷徹ですらある声音にこもった明確な拒絶。これ以上議論する気は無いという意思表示に、レンブレンディアはなにも言えずうつむいてしまう。
 心の痛みは胃の痛み。消沈してしまった娘の姿に心中激痛に悶えながらも、何とかなったかとアーゼルバインが胸を撫で下ろしていると、ス……とレンブレンディアが顔を上げた。その瞳に、かつてないほどの強い決意が滲む。
「子供子供と言えば、私が引き下がるとお思いですか! 私はもう子供じゃない、自分の為すべきことは自分で決めます!!」
 そして……

 場面は転じてとある人間の街。というより、規模としては村という表現の方が適当か。
 大きな街道の途中にあるわけでもなく、これといった特産品があるわけでもない、外部の人間などめったに訪れることの無いそんな場所に、人間の守護者の住処はあった。
 必要最低限の物で自給自足する村にあってなお貧しさの象徴たり得るボロ小屋に、今日も怒号が響き渡る。
「てめえクソガキ! もういっぺん言ってみろ!!」
 ドガアン!! という破壊音と共に、戸を突き破って何かが転げ出て来る。
「ってえな! 何しやがるこのクソオヤジ!!」
 あまりよろしくない表現で相手を罵るのは、十代半ばと思しき少年だ。
 つり上がった鳶色の瞳、乱雑に伸びた髪は、濃い茶色をしている。
 衣服から出た腕は引き締まった筋肉を持ち、頑丈なのかはたまた上手く衝撃を殺したのか、派手な登場の割にはダメージを負った様子は無い。
 少年の、見様によっては野性的精悍さを覚えるかもしれない種々の特徴。しかしあまりにガラの悪い凶眼に、途切れることなく吐き出される罵詈雑言。それらが与える印象は総じて、チンピラ。
「乳臭え甘ったれたガキが。ナマ言ってんじゃねえよ」
 破壊された戸をくぐり現れたのは大柄な男だ。
 並んで立てば少年より頭二つは高そうな見事な体躯を隆々とした筋肉の鎧で包み、大きさの割に全く鈍重さを感じさせない動きは、明らかに何らかの修練を積んでいる。
 それも長く。常人など遥かに及ばぬほどに高く。
 クマも射殺せそうな視線と見事なまでの角刈り。一瞬ヤの付くお仕事の方かと思いそうだが、少年とは逆に、纏う威風と眼差しに宿る何かが、畏敬の念を抱かずにはおれないオーラを放っている。
 勇者レックスロウ。
 当代の英雄は、心底侮蔑しきった表情で眼前の息子を見下ろした。
「ようメルト。てめえさっき何て言った」
「何度でも言ってやる。勇者なんて下らねえっつったんだよ!」
 立ち上がり、唾を吐き捨てる少年―メルトは、負けじとばかりにレックスロウを睨み上げる。
「ガキの頃から修行修行つって死ぬような目に遭わされて、人助けとか言って金にもならねえ仕事にまた命懸けさせられて、にも関わらずこんなド田舎でこんな薄汚ねえボロ小屋で貧乏暮らしなんざ冗談じゃねえ! てめえが好きでのたれ死ぬのは勝手だけどな、俺は御免だね! 何が悲しくて他人のために自分の人生切り売りしなきゃなんねえんだ!!」
「それが次代の勇者の言うことか!」
「知ったことかよ! 誰がんなもんになりたいっつった!? 勝手にてめえの理想押しつけてんじゃねえよ! こんなゴミみてえな生活続けるくらいなら盗賊でもやった方がまだマシだ!!」
 はっ、と皮肉たっぷりに鼻を鳴らし、小馬鹿にした笑みを浮かべるメルト。
「その点魔王ってやつぁ頭良いもんだ。魔王ってくらいだから、さぞや好き放題やってんだろう? 喰いたいもん喰って、欲しいもんがありゃあ力づくで奪っちまえば良い。どっかの理想狂いにも見習ってほしいもんだ。ああ、そうか。俺が魔王殺して王位簒奪してやりゃいいのか! はは、良い考えだろ!? そうすりゃこんな生活ともおさらばで、てめえの望みも叶うってわけだ! ははははは…っ!」
「無理だよ」
 けたたましく笑うメルトに、カウンターめいた一撃が入る
「……あ?」
「無理だっつったんだよ。てめえみたいな逃げしか考えてねえ奴が魔王? 笑わせんな。そんな甘っちょろいもんじゃねえぞあれは」
「な……っ!」
 今までの拳で殴り合うような表面的な応酬とは違う。芯をもって重く突き込まれる言葉に鼻白んで絶句するメルト。
 そこに含まれるものが何であるか、などということを思えるほどにはメルトの精神は成熟していない。格の違いを見せつけられたことへの衝撃と、それに屈して二の句を継げないことへの羞恥が、馬鹿にされたという短絡的な結論に至ったプライドを容易く沸点まで押し上げる。
「言ってくれるじゃねえかよ…じゃあてめえは何なんだ? 綺麗事にしがみついて、惚れた女死なせたくせによ!!」
 言った瞬間心臓を握り潰された。レックスロウから放たれた冷たい殺意がメルトの全身を貫く。汗が噴き出して、メルトが眼前に確かな死を見た瞬間…
「……ちっ」
 レックスロウの舌打ちで、嘘のようにそれが吹き散らされる。それっきり興味を失ったように家の中に戻って行く背中に、メルトは残った意地をかき集めて叫んだ。
「見てろ…見てろよ! 俺はてめえなんかとは違う。俺は俺の手で、俺の力で成り上がってやる! 絶対に、こんな生活から抜け出してやるからな!!」
 返事は最早無い。メルトはガクガク震える膝を何度も殴りつけ、そして…

そして、期せずして唱和した魔王の娘と勇者の息子が、物語の始まりを告げる叫びを上げた。

  「「こんな家、出てってやるっ!!」」


 洞窟に柔らかな光が差し込んで来る。
 その光に優しく頬を撫でられ、レンブレンディアはゆっくりと瞼を開いた。目をこすりこすり、微妙に覚束ない足取りのまま入口近くの湧水で顔を洗う。
 冷たい水に手を入れ、それを顔にかける度に、徐々に意識がはっきりしていく。
「ふう……」
 一息を吐いて外に目をやる。そこには朝靄に霞む森があった。
 息苦しかった城ではない、生まれて初めての外の世界。これから自分がその足跡を印していく、未知の領域だ。
 レンブレンディアは大きく伸びをして胸いっぱいに空気を吸い込んだ。しっとりと濡れた清浄な空気が心地いい。
「素敵……まるで創世の日のような良き朝です」
 至福、という表情で頷くレンブレンディアは、近づいて来る足音に気づいてそちらを振り返る。
「おはようラクティス」
 挨拶に柔らかい笑みが返る。
「おはようございますお嬢様。昨夜は随分ぐっすり眠っておられましたが、ご気分はいかがですか?」
 ラクティスの差し出してくれたタオルを受け取りながら、レンブレンディアが照れくさそうに笑う。
「うん。昨日はいつ寝たのかすら覚えてないけど、やっぱりまだ気分が昂ってるのかな。ちゃんと朝に目が覚めちゃった」
 その言葉に、ラクティスの顔に困惑が浮かぶ。 
「どうしたの?」
「いえ、喜んでおられるところに水を差すようであれなのですが…」
「うん?」
 きょとんとするレンブレンディアに、微妙な表情のまま溜息を吐いてラクティスが言う。
「残念ながら、とうに昼を過ぎております」

「ふん。いいもんいいもん。どうせ私、創世の日なんて知りませんから……」
「力一杯自爆しておいて意味不明な負け惜しみ言わないでください」
 椅子の上で膝を抱えたままいじけるレンブレンディアに、エプロンのポケットを探りながらラクティスが苦笑する。
「だって……寝坊するなんてまるで子供みたいだよ」
「生まれて初めて旅をなさっているんですから、疲れて当たり前だと思いますけれど。あ、ありましたありました」
 よいしょ、とラクティスが引っ張り出したのは大きな丸テーブルだ。さらにワゴンが出てきてテーブルクロスとお皿が出てきて、レンブレンディアの座っているのと同じ椅子がもう一脚出てきた。
 明らかにポケットに入るはずのないそれらで瞬く間に食卓がセットされ、ラクティスは続けてフライパンやら鍋やら食材やらを次々に取り出して並べ、石で作った即席のかまどで鼻歌交じりに料理を始める。
 ほどなくして、とても旅の途中に森の中で作ったとは思えないような豪勢な料理が完成した。
「さ、お嬢様。うじうじしてないで食べましょう。ほらこちらを向いてくださいな」
 レンブレンディアは鼻をひくつかせてちらりと横目で見たが、何かの意地でもあるのかぷいと顔をそむけてしまった。しかし可愛らしくお腹が鳴り、憮然としたまましぶしぶ椅子に座りなおす。
「母なる女神エリミアーナ様。与えて下さる日々の糧と今日という新しい日に感謝します。昼ですけど」
 揃って祈りを捧げて、食事が始まる。
「いかがですか?」
「うん、美味しい。ところでラクティス、次の街まであとどれくらいかかるの?」
 お腹が膨れて機嫌が直ったらしいレンブレンディアが問う。
「この調子で森を進めば、あと三日くらいでしょうか」
「三日……」
 カクンと首を落し溜息を吐いて
「長い……」
「あら、もう弱音を吐かれるのですか?」
「ち、違うもん! ただ、ずっと森の中突っ切ってるから……」
 魔王城を家出してから早一週間。その間屋根のあるちゃんとした宿に泊まれたのはたった一回。昨夜などは洞窟があったからまだ良かったが、それ以外は基本、野宿である。温室育ちのレンブレンディアにとってはかなり辛いはずだ。
 初めの数日こそ興奮してか寝付けないことがあったようだが、ここ数日は夕食を食べるとぱったり眠ってしまい、そしてとうとう今朝は起きれなかった。
 ラクティスとしても心苦しくはあるのだが、いかんせん、この苦労をするはめになったのはレンブレンディアのせいだったりする。
「誰かさんがあんな騒ぎ起こさなければ、普通に街道を通れたんですけどねえ」
「あう……ごめんなさいって何度も言ってるのに……」
 最初の数日は仕方なかった。人間の領域に抜けるのに、まさか正面切って堂々と行くわけにもいかない。当然まともな道など通れず、かなりの苦労を強いられることになったわけだが、ラクティスにしてみれば、そんな苦労は最初の宿場町に着いた時点で終わるはずだった。
 それ以降は大きな街道を行き乗合馬車でも何でも使って、極力レンブレンディアが野宿などせずに済むように、と考えていたのだが……
「まさか、酔っぱらいの喧嘩止めるのに魔王の紋章出す人がこの世にいるなんて…」
「だからごめんなさい~」
「いえいえ別にいいんですよ? そのせいで魔族が攻めてきたとか大騒ぎになってほとぼりが冷めるまでまともに街道行けなくなったとか、前払いした宿代が無駄になったなあとか言ってませんから」
「ううううう~、それ言ってるもん……」
 宿場町到着後、疲れているレンブレンディアをベンチで休ませて、ラクティスは宿を探しにレンブレンディアから離れた。そして宿を取って帰ってみると、昼間から酒を飲んで泥酔している傭兵二人の喧嘩に、レンブレンディアが割って入るところだった。
 ギョッとするラクティスの目の前で、話の通じない(酔っぱらいだから当たり前なのだが)相手に業を煮やし、懐から出した紋章を掲げて控えおろうとレンブレンディアが叫んだ時は、真面目に一瞬ラクティスは意識が飛んだ。
 すぐさまパニックに陥るその場からレンブレンディアを抱えて遁走し、休む間も無く街を脱出。もちろん街道なんて通れるはずもなく、哀れ再び道無き子になってしまったのであった。
 ちなみに件の紋章は、こってりレンブレンディアを絞った後にラクティスが没収し、今はエプロンポケットの底に沈んでいる。
「やっぱり、魔族っていうだけであんなに怖がられるんだね……」
 ポツリとレンブレンディア。
「まあ、この辺りは魔族との境界が近いですから特に過敏ではあるでしょうけれども、魔族が人間に対して抱く嫌悪以上に、人間が魔族に対して抱く恐怖というのは強いものです」
「でも、お母様は人間だったんでしょう?」
 その問いに、遠い眼差しでラクティスが頷く。
「そうですね。マスター……フィリアは、確かに純粋な人間でした」
 レンブレンディアは母親のことをほとんど覚えていない。レンブレンディアが物心つく前に病気で亡くなったと聞いている。顔は、今も残る肖像画で知っているし、アーゼルバインやラクティスをはじめとした城の人々からどんな人であったのかよく聞かされた。
 聡明で穏やかな、澄んだ湖のような女性であったこと。史上最高とまで言われた才を持った、稀代の魔術師であったこと。そのくせどこか子供らしくて、イタズラ好きで、誰からも愛されていたこと。
 母のことを語るときの目は誰もが皆とても優しくて、それだけでレンブレンディアは温かい気持ちになれたものだ。
「レンお嬢様は覚えておられないでしょうけれど、私が長い生涯で唯一主と認めるに足る、素晴らしい方でした」
「うん…」
 レンブレンディアには、たった一つだけ覚えている母との思い出がある。揺り椅子に座る母に抱かれ、母が語る物語に耳を傾ける。そんな記憶。
 母が語って聞かせてくれるのは、とても悲しい英雄の物語。
 混乱を極め、乱れきった世界を救うため、たった一人で立ち上がった英雄。数えきれない傷を負い、幾度も力尽き死の淵を彷徨いながらも、彼は遂に世を乱す元凶である敵を討ち倒す。
 世界を覆っていた暗雲が晴れ、英雄を称える歌が満ちる。しかし彼の顔には笑みは無い。どれだけ人々に請われても、彼は決して戦いについて語ろうとはしなかったという。悲しそうな顔をしたまま、二度とその口が言葉を発することの無くなる時まで、ずっと。
 そして、恐らくは勇者のものであろう物語を語り終えた後の母は、寂しそうな顔をして、レンブレンディアをそっと撫で、言うのだ。彼はいったい、どんな気持ちで戦ったのか、と。
 普通に考えれば、まだまともに言葉も解さない子供に聞かせる話ではないし、そんな頃のことを自分が覚えているはずもない。レンブレンディアだってそんなことはわかっている。人に言えば、きっとみんな勘違いだと笑うだろう。
 それでもレンブレンディアはそれが自分の記憶なのだと知っている。物語を語る母の顔や声。抱かれている温もり。おぼろげなそれらを思い出すたびに、胸の奥にほわりと何かが灯るのだ。
 それはレンブレンディアが持つもっとも古い記憶。今のレンブレンディアの信念の核となる大切な思い出だ。
 だからこそレンブレンディアは、アーゼルバイン達が人間と争おうとするのが許せない。
 戦いを寂しげに語った母。
 己の勝利を決して誉とされるのを望まなかった悲しい英雄。
 その思いを、アーゼルバイン感じ取ってはくれないのだろうか。
「父様は、母様のこと、忘れちゃってるのかな……」
「それは……それだけは絶対にありません。ただ、アーゼルにはアーゼルの想いがあるのですよ」
「想いって、どんな?」
 じっと見つめるレンブレンディアに、ラクティスは何ともつかない曖昧な表情を浮かべた。
「それは……私の口からは申しかねます」
 ふん、と再び膝を抱えるレンブレンディア。伏せた口から拗ねたような声音で
「……ずるい」
 それっきり黙り込んでしまった二人。しばし気まずい沈黙が流れ、おしまい、とわざとらしくラクティスが手を叩いた。
「とにかく、次の街に着いたら仕事を探しましょう。大きな街ですから、何らかの困り事もあるでしょうし、流石にその頃にはほとぼりも冷めていることでしょう」
「……うん、うん! そうです、たとえ父様達が悪の道に走っても、私が改心させて差し上げれば良いだけの話! 目指せ勇者!! 正義の味方!!」
 気合一新、威勢良く立ち上がるレンブレンディア。その際、エイエイオーと振り上げた腕がちょうど紅茶の準備をしていたラクティスの手元をアッパー気味にかち上げた。
 あ、と絶句するラクティスの視線の先、芸術的な放物線を描いた熱湯入りのポットがレンブレンディアを直撃した。みゃあああああ!! という凄まじい悲鳴が森に響きわたる。
 結局、その日は出発できずに終わったのだった。

 街道を一人のチンピ……もとい少年が歩いている。背を丸め、ぎらつく眼光を振りまきながら肩で風切って行くのはもちろんメルトである。すれ違う旅人でもいようものならたちまち盗賊か何かと勘違いされて通報されかねない凶悪なオーラ。しかしぐぎゅるるるる……と音が響いて、そのオーラがしおしおと消えてしまった。
「……腹減った」
 ふらふらと道端の石に座り込み、ガックリと力尽きるメルト。
 壮絶な家出から早一週間。メルトの生活は困窮を極めていた。父親のいない間に家中引っ掻き回して見つけた金品全部持ち出しはしたものの、元々そんなに十分な蓄えがあるのなら苦労はしていないのである。スズメの涙も羨ましくなるくらいのその路銀は、メルトの勢い任せの無計画な浪費によりなんと三日で底を尽いた。それからは宿にも泊まれず水だけを飲み、一昨日、旅の安全を祈願して捧げられたと思しき道祖神への供え物を盗んで以降、何も口にしていない。
「うおお……何とかしねえとマジに死ぬ……」
 金を稼ごうと思えば何とかなる。子供のころから否応無しに身に着けざるを得なかった(そうでないと命に係わる)様々なスキルは、こと危険の代価として報酬を得るような類の仕事ではきわめて有効だ。が、しかし
「めんどくせえ……」
 レックスロウ経由で入って来た依頼ならいざ知らず、メルトのような胡散臭い子供にホイホイと条件の良い仕事を任せてくれる訳は無い。となれば簡単かつ低報酬のお遣いみたいな仕事をチマチマこなしていくしかないわけだが、今更近所の街に荷物運びさせられたり、野生動物の駆除に駆り出されたりするのでは家を出た意味が無い。もっと何か、楽して稼げる仕事はないものか。その思考は、再び盛大に鳴った腹の音により中断される。
「ちくしょう、犯罪に走る奴らの気持ちがわかる……お前ら悪くねえよ! みんな世間が悪いんだ!」
 叫んだ瞬間、空腹のあまり頭が白くなり始めた。
 もういい決めた。追い剥ぎやろう追い剥ぎ。次この街道を通りがかる奴がいたらそいつを襲うと今決めた。
 もう倫理観も何も一片無く吹き飛んだ目つきでメルトが左右に伸びる街道を睨み据える。
 するとタイミングが良いのか悪いのか、二頭立てのそれなりに大きな馬車がポックポックと現れた。飯っ!! と弾かれたようにそちらを振り向いたメルトは、しかしまたもがっくりとうなだれた。馬車の周りに、護衛と思しき武装した男が三人。明らかに場慣れした彼らの動きに、万一にも勝機が無いと見て
「ああ……俺の飯……」
 この上なく身勝手な嘆きを漏らすメルト。そんな珍妙な存在に気付いた男の一人が合図して馬車を止め、こちらに近づいて来る。
「ようボウズ。こんなところで何してる」
「……何してるように見える」
 どんよりと顔を上げながら、男の手がさりげなく剣の柄にかかっているのを確認。子供だからと油断してくれるような温い相手ではないらしい。この時点で、メルトはしつこくしがみついていた襲撃計画を完全に放棄した。そんなメルトの内心に気づくわけも無く、男は不精髭の生えたあごをさすりつつ、そうだなあ……と思案し
「勢い込んで家出したはいいが、世間の厳しさとてめえの見積もりの甘さに餓死寸前に追い込まれてる、ってのはどうだ」
 一瞬ぶん殴ってやろうかと思った。
「何だよおっさん、そんななりして占い師かよ……」
 ぶすくれたメルトの言葉に男は相好を崩し
「当たりか! はは! なに、身に覚えがありすぎてな。男だったら迸る若い情熱を暴走させちまった経験の一つや二つ持ってるもんだ」
 ちょっと待ってな。と馬車に戻り、御者台に座っていた恰幅の良い商人風の男と何やら言葉を交わし、何故か袋一杯の食べ物を持って帰って来る。
「ほらよ」
「憐れんでくれなんて言ってねえ」
 力無い反抗に男はカッカと笑う。
「ちげえよ。あいつも今じゃ商人なんかやっちゃいるが、昔は俺らと一緒にバカやったクチでな。若かりし日の俺達への餞別ってやつさ」
 チラッとメルトが馬車の方を見やると、目が合った御者台の男が歯を見せて笑い、ビシッと親指なんか立てて見せる。
 ダサっ! と心中愕然としながら、渡された食料を覗き込んでみる。果物の他に、干し肉などの保存食が色々入っている。
 ここで素直に食べるのも癪だが、凄まじい勢いで空腹を訴えてくる胃袋に根負けし、せめての抵抗でしかめっ面でリンゴをかじる。一瞬美味さに泣きそうになったことは意地でも見せない。
「ボウズ、これからどっちに向かうんだ」
「今あんたらが来た方向だよ。次の街に着いたら何か仕事探すつもりだった」
「ち、逆方向か……」
 舌打ちする男にメルトは眉を顰め
「何だよ、何かあるのかよ」
「ここいらで最近盗賊が出ててな。かなり質の悪い奴らでな、何人も旅人が殺られてる。俺達があいつの護衛やってんのもそんなわけでな、行き先が一緒なら乗せってってやろうかとも思ったんだが……」
「やだね。そっち行ったっても何も無えじゃねえか。寂れた宿場町ばっかりでろくに仕事もありゃしねえ」
 だよなあ……と男。それでも心配そうにうむむと唸るのでハンとメルトはわざとらしく鼻を鳴らす。
「余計な心配してくれなくて大丈夫だよ。こちとらガキの頃から親父に無駄に鍛えられてんだ。自分の身くらい自分で守れるさ」
 これ見よがしに剣帯を鳴らして見せると、男は溜息を一つ吐き
「ま、お前さんみたいないかにも金の無さそうな子供狙うほど連中も困窮しちゃいねえか。ともかく気をつけろよ。こっから次の街までそんなにかからんが、夜の火とか極力目立たんようにな」
 そして先程と同じように合図し、動き出した馬車に並んで歩き出す。メルトの前を過ぎる時に御者台の男がしつこく親指を上げて見せていたが、無視した。
「ああ、そうだ。先輩としてひとつ言っとくけどな!」
 ちょっと行ったところで不精髭の男が突然振り返った。
「どうしても駄目だったらな、素直に帰れ! どうせ親父さんかなんかと喧嘩したんだろうけどよ、意地張ったってどうしようも無え時もある。そん時ゃ帰って頭下げて一発ぶん殴られりゃいい! 俺も昔はわかんなかったけどな、子供の心配しねえ親なんかいないんだとさ!!」
 変わらず口調は軽いが、その眼差しにある真摯な光に当てられて、メルトは何も言えなかった。男は手を振り
「じゃあな。間違っても犯罪に走ったりすんなよ!!」
 メルトは黙ったまま一団が離れていくのを見送っていたが、やがてその姿が道の先に見えなくなると、苛立ち紛れにリンゴの芯を吐き捨てた。
「知ったような口利いてんじゃねえよ……っ」
 さっきの男の場合は知らないが、あの偏屈な父親が自分のことを少しでも心配しているなんて到底ありえない。帰って頭を下げるなんて論外だ。
「見てろ、意地でもあのクソオヤジの鼻を明かしてやる。それができねえなら死んだ方がましだ!」
 とはいえ……
「どうしたもんかなあ……」
 魔王の位を奪うのが最終目標にしても、一先ず餓死せずに済むようにするのが先決か。となるとやはりしばらくは我慢して地道に働いて……
「待てよ……」
 その時天啓のように閃きが浮かんだ。自分は楽して、きちんと腹も膨れて、かつ後々にも役に立つ、素晴らしいアイデアが。
「そうだよ! はは、なんでこんな当たり前のこと思い浮かばなかったんだろうな!」
 思うに、何だかんだであの父親のせいで思考が良識に引っ張られていたのだ。どうにも体に真っ当な堅気の思考が刷り込まれてしまっていていけない。
 先程までの自分を棚上げして納得すると、メルトは早速少ない荷物の中から長い包みを取り出した。金銭と一緒に持ち出した、父親の秘中の秘。
「くくく、これさえありゃあ……」
 やがて含み笑いは大きくなり、全く善性の感じられない三下悪役のような大笑が森に響き渡った。

  「何でダメなんですか!」
「何でって言われてもなあ……」
 蒸気を噴きながらカウンターを叩くレンブレンディアに、人の良さそうな店主が困ったように眉を下げる。
「単に悪い人達を退治したいって言ってるだけじゃないですか!」
「その志は素晴らしいと思うんだけど、でもお嬢さん、もう一度訊くけど、君と、そこのメイドさんだけでしょ? そんな面子に危険な仕事なんて任せられないよ。そんなことしたらうちだって信用失くしちゃうし、何よりそれで君ら二人帰って来なかったらどうするの。私だってこの年になって、一生後悔しそうなことしたくないよ」
 その言葉から、この店主が善意から諭してくれているのが嫌でもわかるため、レンブレンディアとしてもグッと言葉を呑むしかない。
 あれから数日、森中強行軍を無事乗り切り、何とか目的の街までたどり着いた二人。一日ゆっくり宿を取り、今日の昼になってこの店に出向いて来た。
 様々な厄介事や荒事を解決して報酬を得るという冒険者。そんな彼らに仕事の斡旋をするというからどんな店なのかと思いきや、宿の主人に教わった店は大通りに面した小ぎれいな建物で、中に入ってみても荒くれた様子も無い。奥のテーブルで仕事明けなのか酒盛りをする一団がいるにはいたが、一見普通の食堂付きの宿屋と大差無かった。客の中には目が合うと気さくに笑いかけてくれる者もいて、若干緊張していたレンブレンディアとしては拍子抜けというかなんというか。
 そして、笑顔で迎えてくれた小太りの店主に向かって、開口一番レンブレンディアがこう言ったのである。悪を成敗しに来たので紹介してください、と。
 誠実なのだろう。素っ頓狂な物言いのレンブレンディアに最初ポカンとした店主は、しかし真面目にレンブレンディアの話を聞いてくれた上に、声を荒げることも無く一生懸命に説得してくれている。
 さすがに申し訳なくなったラクティスが割って入り
「別に、犯罪者をとらえたりだとか凶暴な魔物を退治したりだとかというような、大仰なものでなくて良いのです。こう、近場に荷物を運んだりですとか、とりあえず人に感謝されさえすれば良いので、そういった小さな依頼はありませんでしょうか」
「え、ちょっとラクティス何勝手にむぐっ!」
 何か不満を訴えようとするレンブレンディアの口をすかさずシパーンと塞ぐラクティス。店主は台帳をパラパラとめくりながらうーむと唸り
「迷い猫探しとか、失せ物探しとか、浮気調査……はダメだよねお嬢さんには。手頃なのはやっぱり無いねえ。いやね、最近ここいらの街道で盗賊が出てるもんでね。ちょっとした荷運びなんかでも命がけなんだよ、行商人の連中はみんな護衛付けてるし。そのせいでみんな不安が募ってるのか、ついこの間なんて魔族が攻めてきたって騒ぎになった街もあるくらいで。まあ、それは何かの勘違いだと思うんだけど。道中聞いたりしてないかい?」
「ああ、そういえば聞いたような、聞いてないような……」
 内心ダラダラ冷や汗を流しながら、微笑みの裏に動揺を完璧に隠すラクティス。実は騒ぎの元凶ですとか言えるわけはないのである。
 しかしその動揺の一瞬の隙に、もごもごしていたレンブレンディアが脱出に成功。はい! はい! と元気よく手を上げて宣言する。
「じゃあじゃあその盗賊、私達が退治して見せます!!」
 がっくりと肩を落とす店主。今までの長い説得が全く意味を成していないのだから仕方無いというものだ。
「お嬢様……あのですねえ……」
「いかんぜお嬢ちゃん、あんまりわがまま言っちゃあ」
 頭を抱え溜息を吐くラクティスの後ろから、世話になっている店主の窮状を見かねたか、客の一人が声をかけて近づいて来る。
「盗賊退治なんて危ないことしようとしねえで、いい子だから帰んなって」
 いい子だから、の所でレンブレンディアの眉がピクリと反応した。
「何ですか貴方。余計なお世話ですほっといてください」
 ピシャリと放つレンブレンディアの冷たい声音にやや鼻白む男。しかし同業者の視線が集まっているため簡単には引き下がれぬと思ったのか、さらに一歩踏み出し続ける。
「いいかいお嬢ちゃん。確かに盗賊退治なんて魔王倒すのに比べたら大したことじゃないかもしれんけどな、だからってお嬢ちゃんがやれるような簡単な事じゃないんだ」
「誰も簡単なんて思っていませんので。心配していただかなくても結構です」
 その物言いに、男の座っていたテーブルから爆笑と冷やかすような口笛が上がる。仲間に笑われていることに男が顔を引きつらせる中、レンブレンディアの声に混ざり始めた色に気づいたラクティスが頃合いかと仲裁に入ろうとするが、男がなおも言い募る。
「よっし、じゃあお嬢ちゃんの得意なのやってみな。それで俺が倒せたらもう何も言わねえよ」
 なけなしの理性で怒りを抑えた男がひくひくしながら言う。男はレンブレンディアのことを社会勉強にでも出てきた世間知らずの金持ちの娘としか思っていなかった。その点に関しては全くもって正しいのだが、一つ大きな認識ミスがある。そのミスが、万に一つもないと心中で断じた未来を勢いよく男に向かって引き寄せた。
 男の不幸は三つ。
 一つは勢いに任せてレンブレンディアを挑発してしまったこと。
 一つは案内書でもあったかのようにきっちりレンブレンディアの地雷を踏んでしまったこと。
 そして最後の一つは、レンブレンディアに自分を打ち負かす力は無いと侮ったことだ。
 伏せた表情を前髪に隠したまま、トン、と男の胸にレンブレンディアが軽く置いた手に、紫色の火花が弾ける。
「お嬢様ストップ!」
 気づいたラクティスが泡を食って制止するが、一瞬遅い。
打ち据えろ 雷神の打擲!
 ポツリこぼれた言葉に応え迸った雷撃が、男の全身を駆け巡った。びくんと大きく震えた男が、一瞬の硬直の後にばったりと仰向けに倒れた。しんと静まり返る店内に、ふん、と鼻を鳴らしたレンブレンディアの声が響く。
「子供だと思ってなめてかかるからです」
「こいつ、魔術師か!」
「やりやがったなこの!」
 仲間を倒され椅子を蹴立てていきり立つ残りの面々。俄に色めき立つ店内で、迎え撃たんとレンブレンディアが総身に紫電を纏わりつかせる。
打ち鳴らせ 雷嵐の……
 先手必勝とばかりに呪文を紡ぐレンブレンディアを取り押さえようと男達が飛びかかるが、呪文の完成が早い。レンブレンディアは腕を振ると力強く声を上げる。
雷嵐の……戦太鼓!
 雷撃が荒れ狂い、男たちはもちろんのこと、威力が強すぎたせいで無関係な客も巻き込んで猛威を奮った。店中で悲鳴が上がり、たちまち火が付いたような大騒ぎになる。被害を受けた他の客まで一緒になってレンブレンディアを追いかけ始めた。
「おお何か憧れの殺陣っぽいですねこれ! さあまとめてこらしめて……」
 大立ち回りの予感に心震わすレンブレンディア。続けて呪文を放とうとするが、背後に立った影がギラリと目を光らせ
「いい加減に、しなさい!!」
 怒声と共にレンブレンディアの脳天に垂直にお盆を振り下した。思い切りしばかれてうぎゅぅ! とへたり込むレンブレンディア。
「い……痛いです……一体何が……ひぅっ!」
「お嬢様。軽はずみに力を振るってはなりませんと、あれほど申し上げましたでしょうに」
 涙目で振り返ると、そこには店主を後ろに庇い、ニッコリと柔和な笑みを浮かべているラクティスがいた。笑みを浮かべている……はずだ。目は緩やかに弧を描いているし言葉だって穏やかで、形だけならレンブレンディアの大好きなラクティスの笑みと何も変わるところは無い。なのに何故だろう。ゴゴゴゴゴとかいう重々しい幻聴が聞こえるし、何の変哲も無いお盆の角が刃みたいに光ってるし、背中から沸き立つオーラが「殺」の一文字を描いているしで死の予感に体が戦慄している。
「いくら気に入らぬことを言われ挑発されたとはいえ、いえむしろその程度のことで容易く自制心を失うなど言語道断です!」
「でもラクティス……」
「でもではありません! 言い訳しない!!」
「はいぃっ!」
 今度はレンブレンディアが雷に打たれたようにびくりと直立。ラクティスに正座させられ、長い説教が始まる。
「いいですか、そもそもお嬢様はですねえ……」
 延々と説教を続け、レンブレンディアが泣き始めるに至ってようやくその怒りを収める。ぐすんぐすんとすすり泣くレンブレンディアを見て溜息を一つ、ラクティスは呆然としていた客達に向き直ると深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。私の教育が行き届かずこのようなことに。二度とこんなことをせぬようきつく言って聞かせますので何卒ご容赦のほどを。ほらお嬢様も謝って!」
「ひっく……すいません……でした……」
 先程までの凄まじい怒られ方と泣きじゃくるレンブレンディアの姿に、真正面から謝られたこともあって客達は気まずそうに顔を見合わせ
「いや、まあ、俺達も大人気なかったし。なあ?」
「ああ、そもそもうちの仲間がイキがって出しゃばったのが原因だし……」
「悪かったなあ嬢ちゃん。泣くな泣くな~」
 冷静になると反省の念が出たらしい。最初にやられて床に転がったままの一人をほっぽって総出でレンブレンディアを慰め始めた。
「や~、どうなることかと思ったけど、何とか収まったね」
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
「まあ大した怪我人も出てないし良かった良かった」
 そう言って笑った店主が、立ち上がろうとして足をもつれさせてよろけ
「おっと」
 その拍子にラクティスに倒れかかった。
「ううむ、すまないね……と……」
 店主がまじまじと自分の手を見る。もちろん狙ったわけではないが、その手はばっちりラクティスの豊かな胸をホールドしていた。
「ぬおおおおお申し訳無い! わざとじゃないんだわざとじゃ!!」
 慌てて飛び退く店主。ラクティスはその場に立ちつくし、俯いたまま小さく震えている。
「ラ、ラクティス……大丈夫?」
 心配したレンブレンディアが覗き込んでみると、ラクティスはぶつぶつと何か呟いていて
「ふ……ふ……」
「ふ?」
 レンブレンディアと店主が並んで首を傾げる。と、突如首を跳ね起こしたラクティスがギラリと目を光らせ叫んだ。
「不潔ですーーーーーーーー!!」
 ヒュゴッ! とラクティスのスカートの中から迅った銀閃がレンブレンディアの鼻先を掠めた。はらりと舞い落ちる前髪の向こう、修羅と化した侍女が鈍色の刃を携えて立っている。
 それは奇妙な形状の剣だった。少しでも知識のある物がいれば、その武器が東方の剣士が用いるというカタナと呼ばれる武器に酷似していることに気づくだろう。しかしそれも正答ではない。東方の物であるのには違いないが、この侍女の得物は、本来武器として用いるためのものではなかった。
 簡素な白木の柄に長大な直線の刀身。刃紋も美しい、肉厚の無骨な片刃のそれは、超大型の海洋魚をさばく際に使用される桁外れに巨大な……包丁である。
「触りましたね……私の胸とかお尻とか触りましたね!? マスターに頂いた大事な体なのに……」
「え、いやお尻は触ってな……」
「天誅ー!!!」
「のおおおおおおおおおおおお!?」
「ラ、ラクティス落ち着いてー!!」
 我を失ったラクティスが辺り構わず暴れ回り始めた。レンブレンディアの制止も届かず、かくして数分後……
「あ……あら?」
 正気に戻ったラクティスが見たのは、荒れ果てた店内と、隅っこに固まってガタガタ震えているレンブレンディア達だった。

   いきなりでなんだがメルトはピンチだった。お金が無いとかお腹が空いたとかそういう次元ではなく明確に命の危機だった。
 両手両足を縛られ、さらに体は木にグルグルくくりつけられている。いくらなんでも縛りすぎだと思うが、そんな文句も言った瞬間命に係わりそうで口にも出せず、ただメルトはおのれの迂闊さを呪った。
 メルトは眼前、品の無い喋り方でメルトの処遇について話し合っている小汚い(人のこと言えない)盗賊二人をちらりと見上げ、恐る恐る話しかけた。
「あのー」
「あん?」
「すんません、これほどいていただけたらなあとか思っちゃうんすけど……」
「馬鹿かお前は。そんなあっさりほどいたりするんだったら端から縛り上げたりしねえよ」
「そうっすよねー。あはは、そうっすよねえ……」
 メルトががっくりうなだれる。
「っていうかホントにお前何なんだ。こんなとこで何してた」
 何かさっきも似たような質問誰かにされた気がするメルト。
「いや何でもねえですってー。ただちょーっと道に迷っただけの旅のもんですー」
「ただの旅人が道に迷ってこんな山奥まで来るわけねえだろうが! お前冒険者だろうが。他に仲間居んだろう、吐け」
「いやいやホントにただのガキですって!」
 卑屈に笑って見せるメルトだが、心中ではガタガタ震えている。あの荷馬車の一行と別れた直後、メルトの頭に閃いた方策は極めて簡単、徒党を組む、であった。古来魔王というのは大軍勢を率いて勇者を迎え撃つものと相場は決まっているのだ。ならばそんな魔王の位を簒奪するためにはこちらも戦力がいる。多くの部下を集めて一軍を成し、魔王城に攻め入るのだ。しかも部下を使えば自分は基本何もしなくてもいい! 素晴らしいアイデアだ、レッツ実行! と、まずは件の盗賊団乗っ取ってやらんと揚々と山に入り、身に着けた追跡術をフル動員して何とか一人発見。とっ捕まえてアジトの場所を吐かせてやろうと接近したところで背後からもう一人に殴られ、逆にとっ捕まってしまったわけである。悲しいくらいの浅知恵だった。
「ただのガキがこんなもんもってるか?」
「う、それは……」
 突き付けられたのは愛用の剣ともう一本、黒鞘に納まった長剣だ。切り札のつもりだったのだが、先程は結局使うまでもなく捕まってしまった。
(そうかあれがあった!)
 そのことに気付いた途端、メルトはいきなり強気になって
「へへへ、素直に縄ほどかなきゃあどうなっても知らないぜ?」
「そうか、じゃあそうなる前に殺しちまおう」
「あ、待ってごめんなさい今の無し!」
 期待を裏切って持ち主の危機にも何の反応も無い。仮にも伝説に語られる存在なのだから、ズババーッと光でも放って救ってくれても良さそうなものなのだが。
「……お前なあ、なに一人でコントやってんだ」
「おい、殺るならさっさと殺っちまえよ」
 どうやら盗賊たちの中ではメルトを殺してしまうことで意見の一致をみているらしい。マズイこれはマズイどうするどうする……と必死に解決策を考えたメルトは、思いついた瞬間ズバッと頭を下げた。
「俺をあんたたちの仲間にしてくれ!」
 さすがに唖然とする盗賊二人。
「いやもう最初からそのつもりだったんですよ~! その剣もさ、あんたたちに貢ぐつもりだったんだ! 俺もうこんな人生嫌なんだよ、うっとおしい親父とかにあれこれ言われてその通りに生きるなんてまっぴらだ!」
 見栄もプライドも、サクッとドブに捨ててみた。どんなことだって命あっての物種。死なないためなら泥だって啜るし足だって舐める! 見事なまでの小物っぷりを発揮する次期勇者である。
「な、いいだろ雑用でも何でもするからさ!」
 顔を見合わせ苦笑いする盗賊二人。やれやれと肩をすくめてこう言った。
「そうか。じゃあ死ね」
 凍りつくメルト。
「な、なんでだよ!?」
「悪いんだがよ、お前みたいなバカガキ使うほど人材不足じゃなくってな」
「そ、そんなことねえって! 俺結構使えるぜ!?」
「そうかい。あっさり後ろから昏倒させられるくらいか?」
 黙り込むメルトに下卑た笑いを浴びせる盗賊。
「それにな、いくら何でもお前は怪しすぎる。そんなやつ好き好んで連れて帰るわけねえだろ」
 盗賊は無造作に斧を振り上げる。
「じゃあな。恨んでくれても構わねえぜ」
「……嘘だろ」
 こんなにあっさり……と、スローモーションのように迫ってくる死を引きつった顔で見つめるメルト。しかし森に響いた力強い声が、眼前のその運命を吹き飛ばす。
引き裂け 雷獣の爪牙!
 木々を薙ぎ倒し、森を貫通した雷条が斧を持った盗賊を直撃した。
「なんだ!?」
 相方をやられた盗賊が、弾かれたように声がした方向を振り返る。瞬間、その首の一挙動を遥か置き去りにして盗賊の背後を取った影が一つ。長い裾を舞踊のようにひるがえした影の腰間から、抜く瞬間すら認識させず奔った銀弧が盗賊の首に叩き込まれた。
 白目を剥いて崩れ落ちる盗賊の傍ら、鞘内に刃を収めた侍女服姿の女性が一つ息を吐く。
「……包丁でも、峰打ちっていうのでしょうか」
「ラクティス、大丈夫?」
 一人ごちる女性に、現れたメルトと同じ年頃の少女が駆け寄る。
「問題ありませんお嬢様。先程の一撃、お見事でした」
「ありがとう。この人達が例の盗賊かな?」
「でしょうね。とりあえず目を覚ます前に拘束しておきましょう」
 そう言った女性が、エプロンからどう見ても入るわけの無い縄の束を取り出して盗賊たちを縛り上げる。
「そこの方、大丈夫ですか?」
 ポカンとしている間に少女が縄をほどいてくれる。
「お怪我はありませんか?」
 蒼と紅という奇跡のような瞳に見つめられ、メルトがガクガク首を縦に振る。
「あ。ああ……大丈夫、助かった」
「良かった。旅の方ですか? なぜこんなところに……」
 少女の問いにどう答えたものかと思っていると、盗賊たちの武装を解いていた女性が驚きの声を上げた。
「これは……」
「どうしたのラクティス?」
 女性の手にあるのは例の薄情者な黒鞘の剣だ。一見ただの長剣を持って愕然としている女性を不思議そうに窺う少女。
「何故これがこんなところに……」
「この剣がどうかしたの?」
「……あのー」
 遠慮がちに声をかけて申告してみる。
「それ、俺のなんだけど」
「貴方の? ということは貴方が……」
「ねえラクティス、話が見えないよ。この剣がどうしたの?」
「聖剣です」
「ええっ!?」
「間違いありません。これは伝説に語られる聖剣リィンベルグ。その持ち主ということは貴方は……」
 妙な威圧を含んだ女性の視線に怯むメルト。しかしその言葉が続けられるより先に、少女にがっしと手を掴まれた。少女は小さい子供みたいに目をキラキラ輝かせ
「つまり、貴方が勇者様なんですね!!」
 王子様に会った夢見る乙女のように、そう叫んだ。

「なんでだ。なんで回り回ってホントの勇者のようなことを……」
 茂みの中に伏せたまま、うぬぬと唸るメルト。下方、周囲をそそり立つ岩壁に囲まれた砦が一つ。もちろん、件の盗賊団のアジトである。

「魔王の娘えっ!?」
「はいっ! ただ今絶賛正義の味方を志しているレンブレンディアと申します!!」
 あごが外れんばかりのメルトと光り輝かんばかりのレンブレンディア。思わぬ形で邂逅を果たした次代の勇者と魔王の間に何ともいえない顔でメイドが座るという極めて異様な空間において、舞い上がってひたすら喋り続けるレンブレンディア。
「何で魔王の娘が正義の味方!?」
「世のため人のため、愛と勇気と希望を胸に生きることこそ正道と心得まして! コツコツとイメージアップを続け、ゆくゆくは魔王を勇者と並ぶ正義の代名詞にすることが目標です!」
 拳を握り力説する少女。まじで? という顔を向けると、まじで、という頷きがメイドさんから返って来る。
「まあその、それに加えて、已むに已まれず店舗が損壊させられるに至った善良なる市民の方へ、賞金の中から修繕費をご支援させていただこうかとも思っておりまして」
「今思い出させないでラクティス。あれは不幸な事故だったんです」
 どんよりする主従コンビ。
「ところで勇者様は……」
「待て待て。そんなあっさり俺が勇者だって信じていいのか」
 やや呆れながらメルト。
「え、だって……その剣……」
「盗んで来ただけかもしれねえだろう」
「ありえませんね」
 きっぱりとラクティス。
「当代の勇者レックスロウのことは存じておりますが、賊如きに不覚を取るような御仁ではありません」
「え!? 何でラクティスがそんなこと知ってるの!?」
「当然です。幼馴染ですもの。フィリアの」
「ええええええええええっ!?」
 一人事情の呑み込めないメルトは眉を顰めつつ
「まあいいや。親父のこと知ってるみたいだし、俄には信じがてーけどあんたらもホントに魔王の娘ってことで。とりあえず勇者様はやめてくれ。メルトで良い」
「はい、メルト……さん? メルトさんは何故にこのようなところで捕まってらっしゃったのでしょうか」
「うぐっ、そ、それはだな……」
 いきなり言葉に詰まるメルト。
 ・魔王の地位を簒奪しようと家を出ました
 ・その聖剣は父親から盗んだものです
 ・生活費が底をついたので盗賊団を支配しようと企み失敗しました
 ・命欲しさに盗賊に命乞いして手下になろうとしました
 見事に全部言えるわけがない話ばかりだった。
 口ごもるメルト。上手い理由が見つからずおおいに焦っていると、ああ、とレンブレンディアが手を打って
「なるほど! 次代の勇者としてお忍びで悪人退治ですね!!」
「そ、そうそれ! いや、まだ半人前だけどさ、性質の悪い盗賊団がこの辺荒し回ってるっていうんで、こうなんつうか、ここは俺が何とかしないとっていうか、そんな感じでな!」
「素晴らしいです! 感激です! 微力ながらこのレンブレンディアにも助太刀させてください!! 共に力を合わせて人の生き血を啜る醜きこの世の鬼を退治てくれましょう!!」
「おお、もちろんだ! まかせてくれ!! ……あれ?」

 かくしてメルトは、流れのままにこうして二人と組んで盗賊団を壊滅させる羽目になったのであった。
「どうかしましたかメルトさん?」
 きょとんとするレンブレンディアに、溜息を吐いて首を振る。
「いや、なんでもねえから気にしないでくれ」
「静かにお二方。確認しますよ、よろしいですか?」
 茂みの中、姿勢を低くしたままラクティスが言う。彼女は地面に砦の概略図を描き始める。
 アジトの場所は大きな岩山の頂上にある窪地だ。そこに至る道は細い崖沿いの一本しかなく、しかも入り組んでいて麓から見ても視認できない。入り口部分を除いて窪地は高い崖に囲まれており、そちら側からの侵入は完全な崖のぼりで困難を極めた。見つかっても大規模な襲撃をかけられない天然の要害だ。
「ここが今私達のいる場所です。建物が二つに物見台が一つ。先程捕えた二人組の情報からして、敵の数は残り二十です」
 ちらりと視線をやった崖の下、火を囲んでどんちゃん騒ぎをしている盗賊たちが見える。物見台にはやる気の無さそうな顔で立っているのが三人。
「……二十人全員居ますね。地形的に攻め込まれにくいとはいえ油断し過ぎです。今狙って下さいと言わんばかりですね。手順行きますよ? まずお嬢様が広域魔法。正直これで決着しそうな気がしますけれど、その混乱に乗じて撃ち漏らした敵と物見台の三人を私とメルト様で撃破しましょう。よろしいですね?」
 頷くメルト。
「物見台は私が。では……」
「え、あ、待ってラクティス。最初の魔法の後、私は?」
「ここに隠れたまま終わるまで出て来ないようにしてください」
「ええ~……」
 自分も戦闘に加わるつもりだったのだろう。目に見えて落胆するレンブレンディアに、しかしラクティスは頑と譲らない。
「私も戦いたい……」
「絶対ダメです。もし乱戦にでもなったりしたら万が一があり得るんですよ? 昼間の乱闘騒ぎとは違うんですから」
 しょぼんとしたレンブレンディアがすがるようにメルトを見るが、さすがにこれはメルトもラクティスに同意見だ。
「やめとけって。近接戦なんざ、腕が立っても運が悪けりゃサクッと死ぬんだからな。大人しくしとけ」
「……わかりました」
 しぶしぶ引き下がるレンブレンディア。そして各々が配置に付き、ラクティスが合図を出す。
「お嬢様」
 レンブレンディアが立ち上がって静かに詠唱を開始する。
踏み砕け……
 今まで星々が瞬いていた夜空にみるみる暗雲が生じると同時に、その中で激しく稲妻が暴れ狂う。下にいた盗賊達が天気の急変に気付いてざわつき始めた。
「うおお……すげえ……」
 レンブレンディアの魔法の大きさに驚嘆していたメルトは、ふっと息を吐いて気持ちを切り替える。不本意な状況ではあるが、今はとりあえずこの二人に付き合って盗賊の賞金を手に入れ、生計を立てるのが先だ。
雷将の……
「よし」
 気合を入れ、いつでも飛び出せるように構えながら聖剣を抜き放とうとするが
「あ、あれ……?」
 びくともしない。慌てて鞘と柄をもって思い切り引っ張ってみるが、そもそも抜けるように出来ていないかのように全く動かない。
「何をなさっておいでですか」
 レンブレンディアを挟んで反対側にいたラクティスが、変な動きをするメルトに気付いて訝しげに問うてくる。
「いや、これが、抜けねえ……っ」
「はい? 何をバカなことを……」
 ラクティスの言葉を最後まで聞かず、とにかく待ったをかけようとレンブレンディアを呼ぶ。
「悪い、ちょっと待――」
 ――ってくれ、という言葉は続かなかった。騒ぎに気が付いたらしいレンブレンディアがこちらを振り返った瞬間、風にでも吹かれたか、わたわたとバランスを崩し、そのままストーンと
「落ちやがったあああああああ!」
「お嬢様!? 申し訳ありませんメルト様! 物見台お願いします!!」
 そう言い残すと、一瞬の躊躇も無くラクティスが飛び降りる。
「いやそんなこと言われても剣が抜けな……ああもう、くっそ!!」
 仕方なく、メルトも物見台目指して駆け出して行った。

「いたた。あぅ、外套が破れた……」
 垂直に落ちずに滑り落ちたのが幸いしたか、大事なく身を起こすレンブレンディア。その代わりにボロボロになってしまったお気に入りの外套を見てべそをかいていると、ふと視線を感じて顔を上げた。
 いきなり女の子が落ちてきたことに目を丸くしている盗賊の皆さんと、ばっちり目が合ってしまった。
「えーと……」
 お互いどう動いていいのかわからない妙な均衡の中、えへ、とレンブレンディアが照れ笑い。何だかよくわからないけれどその笑顔が可愛かったので、一緒になってとりあえずにっこりした盗賊達は、レンブレンディアがすっと指差したのにつられて空を見上げ
踏み砕け 雷将の軍靴
「ぬおおおおおお!?」
 ゴロゴロピッシャーンと辺り一帯に降り注いだ雷によって半数以上が吹き飛んだ。
 火が着いたようにパニックに陥る盗賊達。
「親分親分空から女の子と雷がー!」
「敵襲!? 敵襲なのかこれ!?」
「知らん! 知らんけどとりあえず……」
 そこで自分に影が差したことに気付いた一人が再び上を見上げた瞬間、翻ったスカートから伸びたブーツの底が、その顔面にめり込んだ。
 片足で盗賊の顔に着地したラクティスは、体を沈ませて吸収した衝撃を顔を蹴り飛ばすことで斬撃の踏み込みに変え、盗賊達のど真ん中に踊り込んだ。
「今度はメイドだよ!!」
「一体何がどうなってんだこれはー!!」
 叫ぶ端から奔る銀閃に叩き伏せられていく。かろうじて武器で受けようとした一人など、かざした武器ごと真っ向斬り捨てられた。
「お嬢様、お下がりください」
 レンブレンディアを庇う位置に、故意に威圧するようにゆるりと立つラクティス。金色の瞳に見据えられ、次々と盗賊達が戦意を喪失していく。

「何なんだあの二人!?」
「ちくしょう、ぶっ殺してやる!!」
 物見台の一人が弓に矢をつがえる。ラクティスの背後で退こうとしているレンブレンディアに狙いを定めて放とうとした瞬間、飛び込んできたメルトによって弓を弾かれた。
「させるかって!!」
 叫んで柄を握る手に力を込める。変わらず抜ける気配は全く無いが、それならそれでやり様はある。剣としての鋭さが期待できないのなら、鈍器としてぶん殴ってしまえばいいのだ。
「お……っ!」
 弓を弾かれて体勢を崩す盗賊の側頭部に棍棒よろしく叩き込み
「おおおらあああっ!!」
 力任せに一回転。残る二人も巻き込んで、まとめて物見台から叩き落とした。
「っしゃあ!!」
 今までの鬱憤を爆発させた少年剣士が、拳を突き上げ快哉を上げる。

「降伏をお勧めしますがいかがでしょう」
 包丁に付いた血をヒュッと払うスラクティス。傍から見るとかなり怖いが、対する一人残った頭目らしき男は、大振りな斧を構えながら憎々しげに喚く。
「ふざけんな! こちとら伊達や酔狂で盗賊やってるわけじゃねえんだよ!! ガキとメイドに壊滅させられた挙句おめおめ降伏なんかできるかあ!!」
「それは確かに。では、お覚悟下さい」
 男が破れかぶれに吶喊してくるのに応じ、踏み込んだラクティスと交錯する。
 永遠にも等しい数秒の沈黙の後、男の体がゆっくりと倒れ伏した。
「……成敗」
「ラクティス、終わった?」
 言われた通り隠れていたレンブレンディアがひょっこり顔を出す。恐る恐る倒れた男に近づき
「死んじゃったの?」
「急所は外しております。それよりもお嬢様……」
 ぎくりとするレンブレンディア。ラクティスの形の良い眉がきりきりと上がり始めた。お説教のお時間である。
「なんであんなに崖ギリギリに行ったんですか。最初に呪文唱え始めた位置にいればよかったでしょうに」
 ぷぅ、とレンブレンディアは頬を膨らませ
「だってだって唯一の見せ場だもん。カッコ良く決めたかったんだもん!」
「よろけて落ちておきながら何を仰いますか。昼間の店での件にしてもそうですが、もう少し考えてから動くようになさってください。お嬢様にもしものことがあったらどうします。私はフィリアに顔向けできません」
「う~……」
 正論による口撃に、言い返したくても言い返しようが無いレンブレンディア。
「おーい」
「あ、メルトさんだ! ほらほら、ラクティス行こう!!」
「あ、お嬢様まだ話は終わってません!」
 渡りに船とメルトの方に逃亡するレンブレンディア。ラクティスは諦観の混じった溜息をついて後に続こうとし
「っ!? お嬢様!!」
「え……?」
 驚き立ちすくむレンブレンディアの真横。最初の雷で打ち倒されていた盗賊が立ち上がった。傷が浅く意識を取り戻したか気を失ったふりをしていたか、手に鈍色の湾刀を持ってレンブレンディアに飛びかかってくる。
 こちらに駆け出してくるラクティスとメルトが何か叫んでいる。レンブレンディアはコマ送りのように自分の体に突き立てられようとする刃を、茫然と見つめていた。
 衝撃を受けて倒れるレンブレンディア。刺された、と異常なほど冷静に判断するが、体のどこにもそんな痛みが無い。
「あれ……え……?」
 刺される瞬間、自分と盗賊の間に何か割って入るのが見えた。眼前にまだあるそれは、ずるりと崩れ落ちレンブレンディアに倒れ込んでくる。
「ラ……ラクティ……ス……ラクティス?」
 力を失ったラクティスの体を抱き止め、うわ言のように名前を呼ぶレンブレンディアに、盗賊が再びその刃を振り下す。
「あああああああっ!」
 間一髪飛び込み盗賊の湾刀を弾き飛ばしたメルトは、自分でもわからない滾るような何かに突き動かされ、リィンベルグを振り上げる。
「この野郎、よくも!」
 次の瞬間、ドクンと何かの脈動を感じると同時に真白な閃光が走り、気づけばいつのまにか、眼前に盗賊が倒れ伏していた。
(何だ……今の……)
 茫然と手の内の見るが、そこには相変わらず、黒い鞘に収まったままの聖剣があるだけだった。
 先程の感覚を探るメルト、しかし背後から聞こえてきたレンブレンディアの泣き声にはたと我に返る。
「ラクティス……ラクティス起きて……こんなのやだよう……」
 動かないラクティスの体に縋って泣きじゃくるレンブレンディア。さしものメルトも、悲痛な心持ちで目を反らす。
 と、そこで目が合った。
 レンブレンディアと、ではない。レンブレンディアに揺さぶられて困った顔をしているラクティスと、である。
「…………うおおっ!?」
 思わず飛びずさるメルトに苦笑しつつ、ラクティスが軽くレンブレンディアの背を叩く。
「お嬢様。結構幸せな気持ちでいっぱいではあるのですがそろそろ放していただければ」
 ぴたりと泣き止みきょとんと見つめ、ラクティスが首を傾げてみせるのを認めたレンブレンディアは、みゃー!! と悲鳴を上げてラクティスを放した。
 その拍子に頭を地面に強かに打ち付けるラクティス。うぐ、という呻きがメルトには聞こえた。
「ラクティス、本当に生きてるの? お化けじゃないよね!?」
「今すごい勢いで殺されるところでしたが大丈夫です。この通り生きております。ご心配おかけしました」
「え、でも、だってラクティス刺されて……」
「ません。さすがメイドの正装。頑丈です」
「えええええええええ!? 嘘、だって……」
 しかしレンブレンディアが確認しても、確かに服は裂けてしまっているが、ラクティスの体には傷一つ付いていなかった。
「ホン……トだ……よかったぁ……」
 安堵からへたり込むレンブレンディア。
「すいませんお嬢様。服が破れてしまったので、外套を貸していただければ」
「あ、うん。ちょっと待って。この外套も破れてるけどいいかな?」
 一方メルトはそのやり取りを茫然と見ていた。メルトからはっきりと見えたわけではなかったが、ラクティスの位置と盗賊の得物の長さからして、どう考えても刃はラクティスの体を貫通するほど深く刺さっていたはずなのだが。
(俺の勘違いか……あんなピンピンしてるしなあ)
 すると、外套を羽織る際に一瞬だけ見えたラクティスの背に、何かに突き破られたような裂け目があるのが見えた。
 思考停止するメルト。自分を凝視する視線に気づいたラクティスが、ちらりと金色の瞳をこちらに向けた瞬間
「な……」
 ぞわりと全身が総毛だった。本能の警鐘に従った右手が咄嗟に剣を求めて腰に伸びる。
「メルトさん?」
 不思議そうなレンブレンディアの呼びかけに、ハッと正気に戻る。ラクティスは変わらずこちらを見ているが、先程のような感覚はもうどこにも無かった。
「ああ、すまん。念のため周りをちょっと警戒してただけだ」
 ごまかすように笑って、硬直している右手の指を剣の柄から一本ずつ引きはがしていく。自分のものではないかのようなそれは、噴き出した汗でぐっしょりと濡れていた。

 数日後。盗賊団壊滅の報を受けて地域一帯が沸きに沸いたお祭り騒ぎも一段落した頃、一行は過日レンブレンディアやラクティスの暴走によって半壊の憂き目にあった例の宿に泊まっていた。
 あの後、レンブレンディアとラクティスは褒賞金が支払われるやメルト含めて三等分し、二人の取り分を持ってすぐさまこの宿に謝りに行った。どこまでも人の良い主人はこんなにもらうわけにはいかないと大半を返そうとし、それでは自分達が納得できないと譲らない主従とひたすら褒賞金を辞退し合うという大変めんどくさい展開になった。
 メルトが白い目でその一部始終を眺める中、交渉の結果、数日の滞在費込み(メルトの分含む)で、という条件で全額受け取らせることにラクティスが成功。しばしの休息を楽しむこととなった。予定としては、明日辺りここを発つことになっている。
「メルトさんは、これからどうなさるんですか?」
 明らかに主人が豪華にしてくれている朝食をいただきながら、ふとレンブレンディアがメルトに尋ねる。
「あ~、どうしたもんかなあ」
 褒賞金のおかげで、たとえ自分の分の滞在費を出したところで当面の生活には困らない。とりあえずの目的を達成してしまったメルトとしては、次どうするかと言われても特に案があるわけではなかった。
 そんなメルトの様子を察したのか、レンブレンディアがおずおずと提案する。
「あの……ですね。よろしければ、しばらく私達とご一緒しませんか」
「お前らと?」
 いきなりの申し出だが、メルトとしては好都合ではある。レンブレンディア達の戦闘能力は高い。一緒にいれば、一人では手に負えないような大きな依頼もこなしていけるだろう。二人に任せておいて自分が楽をするという選択肢もあるし、後々のための軍資金も蓄えていける。
「あのメイドはオッケーなのか?」
「ラクティスですか? はい。二人で話して決めましたから」
 ちょっと意外な気もしたが、それならばメルトとしては断る理由は無い。
「そうか。なら、そうさせてもらうかな」
「本当ですか!? 良かった。よろしくお願いしますね、メルトさん」
 そう言ってレンブレンディアは、無邪気に嬉しそうに笑うのだった。

 宿の外でそんな二人の様子をうかがっていたラクティスは、やおら手を上に掲げた。するとどこからともなく一羽の蝙蝠が現れ、ラクティスの周りを旋回し始めた。
「これを」
 ラクティスが差し出した金属製の筒を掴むと、蝙蝠は空へと舞いあがっていく。ラクティスはそれを見送りながら、ちらりと宿の中に視線を向ける。
「次代の勇者……ですか」
 ポツリとそう呟くと、何事も無かったかのように宿へと戻って行った。